読書の独書

私の為に本を読みあなたの為に書く書評

宮大工「みんな規格にはまった同じもののなかで暮らしているようにしか見えません」

木のいのち木のこころ〈天〉

木のいのち木のこころ〈天〉


木のいのち 木のこころ<天> 西岡常一 著

 しかし、この機械の時代が来ましたら「職人」が消えていきました。機械やコンピューターが、職人が代々受け継いできた技と知恵を肩代わりして、ものをつくってくれるようになったんです。
 時代は科学第一になって、すべてが数字や学問で置き換えられました。「個性」を大事にする時代になったといいますな。
 しかし、私たち職人から見ましたら、みんな規格にはまった同じもののなかで暮らしているようにしか見えませんのや。使ってる物も、住んでいる家も、着ている服も、人を育てる育て方も、そして考え方まで、みんなが同じになっているんやないかと思っております。
 私は自分でも修行しましたし、たくさんの腕のいい職人と一緒に仕事をしてきまして、職人の仕事は機械では代われんものだということを強く感じております。

 著者である西岡常一氏は法隆寺大工。職人である。

 しかし、木を育てるというのは大変なことです。自分のことだけを考えていたらできません。国の未来や国土の命を守るという使命感があって、初めて木は育てられるんです。人間を育てるのも同じことでっせ。次の世代を担う人を育てるという使命感がなければあきません。それも口先だけやなしに心底から信じてなくてはあきませんわ。

 今の教育はみんな平等やといいますが、人は一人一人違いまっせ。それを一緒くたにして最短距離を走らせようと思っても、そうはいきませんわ。一人ずつ性格も違いますのや。その不揃いな者をうまく使い、それぞれの異なった性格を見出すのは、無駄なしにはいきませんで。

現代社会は無駄を認めないって言うのは確かだ。

 それと人間というやつは、褒められると、こんどは褒められたくて仕事をするようになります。人の目を気にして「こんなもんでどうや」とか、「いっちょう俺の腕を見せたろ」と思って作るんですな。ところがそういうふうにして造られた建物にはろくなものがないんです。

「褒めて伸ばそう」という教育では真の職人は生まれない。

「百論をひとつに止めるの器量なき者は謹み惧れて匠長の座を去れ」
 厳しいですな。工人の意見を一つにまとめられんかったら棟梁を止めよというんですからな。そんなとき、上に立つ者は自分の不徳を恥じず、下の者が悪いというて首にしたり、よそに行かせたりしていませんか。下の者の意見をまとめられんのは自分に器量がないからだというんですな。こんなことになったら自分から辞めなければならん。建物を完全に建てるということは大変なことなんです。木の癖が読める、腕がいい、計算ができる、これだけではだめなんですな。棟梁というからには工人に思いやりを持って接し、かつ心をまとめなければならんのです。

社長や上司、今の政治家にもに聞かせたいひと言。

 よく百年、二百年後には西岡のようなものがおらんから木で塔を造ったり修理は無理やろといわれますが、そんなことはないんです。現にそこに塔がありましたら、木のことが分かる者や、ちゃんと仕事をする者は昔の人はこないやったんかていうて、私らが千三百年前の力強さや優雅さに感心して学んだと同じようにやれるんです。それができんやろからコンクリや鉄でやったほうがいいというのは、次の人たちに対する侮辱ですな。私も法隆寺や薬師寺から
いろんなことを勉強させてもらったし、教わったんです。この後の人かて、ちゃんとした物が残されておったら、そこから学び取ることができるんですわ。そのためにもちゃんとした物を残さなあきませんで。いいかげんな者を造って残したんでは伝わるものも伝わりませんし、そこで伝わってきたものを滅びさせることになりますのや。ちゃんとしたものを残すためにはできるだけのことをせなあきません。

レビュー

法隆寺の宮大工としての技術や考え方などが詰まっている。現在の教育論への投げかけなど考察すべき点は多い。果して現代社会のコンピューター技術で造られた物の中に伝統として受け継ぐものはあるのだろうかと不安にさえなる。生産性追求の現代に警笛を鳴らされている様にすら感じる言葉の数々。今、私がしている事が未来に何の意味があるのだろうか?それをもう一度考えたくなる。

新装版 法隆寺 (日本人はどのように建造物をつくってきたか)

新装版 法隆寺 (日本人はどのように建造物をつくってきたか)


木のいのち木のこころ〈地〉

木のいのち木のこころ〈地〉


木のいのち木のこころ 人 (新潮OH!文庫)

木のいのち木のこころ 人 (新潮OH!文庫)